【私の生き方】90年代、スーパーモデル全盛期のパリで学んだこと
新しいことに挑戦し続ける! パワフルに生きるSAKURAさんの秘訣とは?
自分の人生は、自分でしか生きられないし、どう楽しんでいけるかは、毎日の選択と気持ち次第。どんな生き方だって、自分で選んできている人は、いつだって魅力的に見えるし、自然と心惹かれるもの。コスモポリタン日本版では、人生を謳歌しているさまざまな女性の生き方を紹介していきます。
モデル・ビューティジャーナリスト SAKURAさん
1989年、元祖スーパーモデルたちがランウェイを賑わしたパリ。そこにスーツケース1個を持って飛び込んでいったのが、日本人モデルのSAKURAさん。パリの街で伝説のモデルたちに囲まれて磨かれたプロ根性、エネルギーは今でもずっと生き続け、現在はモデル、ビューティジャーナリスト、10年間の甲南女性大学 での非常勤講師経験などマルチに活躍を続けている。恐れずチャレンジし、輝き続けるSAKURAさんのパワーの源はどこにあるのか、素顔に迫りました。
―「ヨーロッパでモデル」になることに挑戦した経緯を教えてください。
モードの本場はパリだ!と思い、スーツケース1個で、知り合いのいないパリへ飛び込んだ
当時私が日本でモデルをしていた頃は広告全盛期でした。CMや企業広告などに出演していましたが、「何か足りない?」と思うようになって。そんな20代前半の頃に、モードの本場はパリだ!と思い、ためらいなくスーツケース1個で知り合いのいないパリへと飛び立ちました。
現地に着くと、まず有名なモデル・エージェンシーのリストを片手に、片っ端から公衆電話で電話してアポイントを取っていきました。自分の力で直接会うところまでこぎつけないといけないので、かなりチャレンジ精神が試されましたね。
パリから先にミラノに渡り、「絶対所属したい!」と思っていたモデル事務所に4回訪れたのですがその度に断られ。でもなんだか納得がいかず、「あなた、また来たの?」と受付の女性に言われならがも(笑)粘って5回行きました。そしたらヘッドブッカー(所属させる、させないのジャッジを決める人)が中から飛び 出てきて大歓迎され、その希望事務所に所属することになりました。その日から有名雑誌のオーディションを組まれるなど、モデル人生が一転したことは忘れられません。なんとなく直感だったのですが、それを信じて諦めなくてよかった!と、今でも思っています。
―1990年前後の当時はスーパーモデル全盛期。他のモデルたちから刺激を受けたことは?
自分の未来のヴィジョンを持って、それをはっきり口にすることができる。「私もしっかりしないと!」と強く思った
当時のスーパーモデルほどのメンバーはそれ以降なかなか出てこないし、彼女たちは今でも活躍している。それぐらい存在感と華やかさがありました。
例えばサルコジ元仏大統領と結婚したカーラ・ブルーニ。 ある日、シャネルのツイードスーツを着た彼女が、バーンと足で事務所の扉を蹴って「ボンジュール!」と入ってきて。「わぁ、これぞモデルだ!」と衝撃を受 けましたね。当時日本では少し尖った格好をするデルカジファッションというスタイルが流行ってたんですけど、ジャケットとスカートというコンサバティブな服装をしているのにモデルとしての存在感がある彼女を見たときに、すごく衝撃を受けました。
ケイトモスも、すごく仕事にプロフェッショナルで強烈な個性を持っていたのを覚えています。
それに、みんな自分の未来へのヴィジョンを持って、それをはっきり口にしていたのが印象的! 例えば、褐色の肌でグリーンアイズのヘレナ・クリステンセンは「将来結婚したら、ボランティアや好きな古着屋を経営したい」、クラウディア・シファーは「将来弁護士の仕事にも興味がある」とか。
日本から来て事務所に英語で電話するだけでもストレスで余裕がなかった私には、目から鱗でしたよ。「私もしっかりしないと!」と強く思った瞬間でした。それ以来、自分の未来をイメージするようになり良い影響を受けました。
レベルがすごく高いプロフェッショナルな彼女たちの姿を間近で見れたのは、とても貴重な経験でした。
―その後2年半のヨーロッパ生活を経て日本に帰国されていますが、どういった経緯でビューティージャーナリストになったのでしょう?
たとえモヤモヤとしながらでも、自分の未来をイメージすることは大切。そうすることで、やがて訪れるチャンスに敏感になる
スーパーモデルたちから良い刺激を受けたことで、さらに"プロフェッショナル"を追及しようと帰国してモデル活動を続けていました。そんな中、モデルを軸にそこから何か違う表現をやってみたいとイメージするようになり…でも何がしたいか具体的に見えず、3年間ほど悶々としていた時期もありました。
そんなとき、ある女性誌の編集長から、「これから、コスメというジャンルの成長がすごい時代がくるから、モデル・コスメジャーナリストとして、コラムを書いてみないか?」と声をかけていただいて。自分の中で、「これは新しいチャレンジかもしれない!」という気がして、依頼を受けたのが今のお仕事の原点です。 その雑誌では6年間連載を担当し、様々な誌面や新聞、ウェブサイトなどへと仕事が広がっていきました。